ご家族の想い

看護師の湊です。

 

このたび当院ご利用者さまのご家族よりお手紙をいただきました。

 

認知症と診断を受けてから約10年間。家族で協力して介護を頑張って来られましたが、病状の進行に伴い在宅療養の限界を迎え、家族がある決断にたどり着くまでの苦悩が綴られております。

 

ご本人の了解を得ましたので、今回は皆様にそのお手紙の一部をご紹介したいと思います。

 

 

父は大正15年、8人兄弟の次男として東京に生まれました。

漆職人の家に生まれ、子沢山の中、父は小さいころから働いて家族を助けたそうです。

 

第二次世界大戦が激戦を続ける中、父は志願して戦争へ。広島の海軍基地で通信兵として駐屯中、広島に原爆が投下されました。

甚大な被害の中、軍より被害者救出の任務を課され、間接被爆をしてしまいました。広島の記念病院に1年入院し、軍から米袋1つだけを持たされ除隊。お金がないため、東京の実家に帰りたくても帰ること叶わず。混乱の極みの中、港湾の下働き、農家や漁師の手伝い・・・。実家で待つ母に会いたい一心から、様々な仕事をしながら旅費を作り、1年の年月をかけ、ようやく帰省することができました。

 

その後もまた、小さな兄弟達のために身を粉にして働きました。家族を助けながら夜間学校に通い、エンジニアの資格を取ったのち、船橋の病院へ技師として就職。同病院にて看護師として働く母と出会い、結婚し家庭を築きました。

父は看護師をする母のキャリアを支えるために、当時まだ珍しい「育メン」として、子供の送り迎え、家事、食事の支度を厭うことがありませんでした。実際、私は小中高と父の手作り弁当で大きくなりました。今でも同級生からは「ヨッチャン弁当」と懐かしく言われるほどです。

参観日や運動会、PTAなど、学校行事には必ず父の姿がありました。

トレードマークの和服に下駄。父曰く、正装で失礼のないようにと・・・。

当時、そんな父の姿が恥ずかしくてたまりませんでしたが、父としては共働きが珍しい時代でしたので、娘が引け目を感じぬようにと一生懸命臨んでくれた末のことと、今振り返り心から感謝しております。

結果、母は350人もの看護師を束ねる部長にまでなり、受勲を受けて退職しました。

 

娘たちには、当時まだ珍しい海外留学までさせてくれました。

父はよく、自分を置いても愛する者の成長こそが、男の誇りと話しておりました。意識のはっきりしている時などは、母の功績や生き生き働く姿などを褒めたたえ、母への思いが止まらないほどでした。互いに感謝と慈しみを持ち、仲睦まじい夫婦として過ごしてきました。

 

多くの兄弟がいる中で父が一番心を向けていた弟がおりました。その弟は、小さなころより体が弱く、パーキンソン病を発病し、生涯独身で過ごしました。

父は弟を自分の家族と位置づけ、妻・二人の子供と弟と家族として長年暮らしましたが、弟のパーキンソン病の悪化に伴い、専門医の通院を考慮し、近所へ居を移して介護の日々を過ごすこととなりました。

 

しかし、平成1511月のことでした。

弟が入浴中に虚血性心不全にて不慮の死を遂げました。

その報を聞き父はその場で倒れこみ、千葉大学病院へ搬送されました。

弟の死があまりに悲劇的であったことから、父は一瞬にしてとてつもないショックを受け、左頸動脈が狭窄し脳梗塞を起こしてしまったのです。そのまま緊急手術となり、弟の葬儀に参列することも叶わず、長期入院生活を余儀なくされました。

 

退院後は、数年通院生活を続ける中で、認知症と疑うべき行動が見え始め、その2年後の平成元年2月、アルツハイマー型認知症と診断を受けました。

手探りの中、介護申請を行い、家族内介護を始めて早10年になろうとしています。

当初、アルツハイマー型認知症への理解ができておらず、また、介護においても同様でした。

日を追うごとに、大学病院への通院も困難になってき、家族のみならず、介護ヘルパーの付き添いでの通院となりました。そのうち、行動を制限するお薬を処方され、見守りの下での介護を続けていくうちに、全介助が必要な生活へ変わっていきます。体幹機能低下により傾きが表れ始め、家族による声掛けがなければ一人独語を繰り返す、そんな生活が数年続きました。

 

そんな中、訪問看護師より訪問診療を受けながら、在宅療養を続けることができると提案を受けました。それが、現在の主治医である梅野医師との出会いです。

 

お薬で制限を与えるばかりでなく、人生の黄昏の時間を人間らしく、少しでも家族と穏やかな時を味わえるように・・・との治療方針に変更しました。

内服薬を極力減らし、介護体制を根本より見直し、対外行動を受け入れながら、人とのふれあい、スキンシップを生活に取り入れ、父は徐々に本来の姿へ戻ってきました。その時の状況は、当時取材に見えたNHKの番組スタッフも驚くほどでした。

 

しかし、今年1月、衣類の防虫剤を誤食してしまい緊急搬送。数日の入院生活を送った後より、精神的・体力的に消耗が激しく、最近は座って過ごすことが多くなったように見受けられます。

父は老化による症状は若干ありますが、歩行や排泄も可能で、嚥下機能も低下していません。認知症により、言葉が理解不能なこともありますが、意思疎通はできる状態です。しかし最近は、特有の周辺症状がひどくなってきており、介護拒否や徘徊、服薬拒否、家族の認識力低下が見られるようになり、時には娘である私に、敵対者として怒りをあらわにすることもありました。

現在の父は、居場所としての小さな空間で、落ち着いた穏やかな暮らしをするステージに入ってきたと強く感じます。これまでもたくさんの人に支えられ、デイサービスやショートステイを利用してきましたが、環境的にも体力的にも、自宅での介護に限界が来たと痛切に感じていました。

 

3月のある日、父の現状を把握し今後を話し合う担当者会議が開かれました。主治医・ケアマネージャー・訪問看護師・介護ヘルパー・デイサービスの施設長と共に話し合う中、父がもはや次のステージへ進んでいること、今後は専門家の手助けが必要と示唆されました。家族内での介護の限界を突き付けられ、娘として、家族が見切れなかった現実を痛感しました。

父が最後の日を迎える日まで自宅での介護を望んでいたものの、現状を家族が受け入れられずにいたことを、心を鬼にして伝えてくださった事を母とともに深く受け止め、今回施設入所申請を決めることにしました。

(以下、略)

 

この先もお手紙は続きますが、今回は入所に至るまでの介護体制や心情の変化の部分を抜粋させていただきました。

 

この方は、その後無事に有料老人ホームへ入所を済ませました。ご家族が施設の介護スタッフの手を煩わせてしまうのでは?と心配されていましたが、スムーズに周囲になじむことができたようです。その姿を見て、ご家族もきっと肩の荷が下りたことでしょう。笑顔でご報告をいただきました。ご家族の希望で、その有料老人ホームにて当院の訪問診療を継続していくこととなりました。

 

今回の事例ではサービス担当者会議の開催が重要なポイントとなりました。

通常、担当者会議はというのは、介護度の区分変更時や更新時期に合わせて開かれることが多いのですが、今回は当院からのアプローチにより、その方の状態を踏まえて、ご家族の介護負担だけではなく心情も考慮したタイミングでの開催となりました。また、自宅にて患者さまに合わせたサポートを行なうイメージの強い訪問診療ですが、自宅だけではなく、流動的に入院や施設入所を勧める場面も多々あります。

 

超高齢社会を迎えた今、最期の療養場所をどこに設定するか、患者さまとご家族は決定を迫られます。それには、日々の訪問診療を踏まえ、各介護サービス事業所との連携を密に行ない、ときには新たな介護サービスのご提案を行ないながら、段階的に周辺を整えサポートしていくことが、我々訪問診療クリニックに求められることの一つと捉えております。

 

そして何よりも、患者さまとそのご家族への寄り添いを今後も続けていきたいと考えています。

 

四街道まごころクリニック

看護師 湊